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(このレポートはチャンスをつかむ仕事情報誌Bing関西版平成元年5月18日号に連載されたものです)

 

  メキシコ特有の赤褐色の大地を太陽が照らし始めた。エルセナダの空が青白くあけてゆく。63年1月11日早朝。今野久男は地平線をにらんで、ぶるっと身を震わせた。彼はこの日、世界中から集まったバイク野郎に混じって、自分のスタートをじっと待っていた。レース前の緊張が高まる。心臓が早鐘のように打った。30秒間隔で次々に出走していくライダーたち。その轟音と土埃の中で、彼はふっと深く息をした。
無冠の疾走者
 今野はヘルメットを被り直し、ゴーグルの曇りを入念に拭き取る。気持ちを鎮めようとしたが、それでも嘔吐感がこみ上げてきた。レースは「88BAJA1000」という。エルセナダの町を起点に、カリフォルニア半島北部を8の字を描くように周回するオフロードラリーで、走行距離は12000km。パリダカのようなサバイバルレースと違い、30時間で速さを競うスプリントレースである。死者こそないが、完走率は例年50%にも満たない。そしてコース難度や、ドライビングの程度では、むしろパリダカを凌ぐと言われている。しかも優勝賞金はない。このレースに参加するライダーたちは、タダメキシコの大地を疾走する事だけに、やってくる。88BAJAに参加したのは4輪2輪380チームである。今野は87年に続き佐々木隆トペアを組みクラス30(33歳以上の部)にエントリーしていた。

ゼッケン189ライムグリーンのカワサキKX500にまたがる今野の姿は、まるで中世の鉄騎士のようだった。彼は大きく張り出したガソリンタンクを、ぽんぽんと軽く2度たたいた。そしてゆっくりと右足をキックペダルにかけた。小さな今野の体が、バイクの上で伸び上がる。全体重がキックペダルを蹴りおろした。その瞬間KX500の65馬力のエンジンが爆発した。タコメーターの針が一気にレッドゾーンを振り切る。スロットルを絞る、戻す。KXが身震いをする。カチャリという音と共にギアが一速にはいる。エンジンのうなりが増す。クラッチを握る手が緩んだそのとき、今野が乗った、KXは前輪が宙に浮き、ばねが弾かれたように赤い大地に飛び出していった。今野は風になった。時速190kmのスピードで爆走する彼の後ろに、土煙が長い尾を引いていた。

こうなったら、好きなバイクを
とことんやってやろ


 今野はプロのレーサーではない。どこにもある、町のバイク屋の主人だ。店は「モトショップ・コンノ」といい、神戸市灘区のJR六甲道近くにある。店をはじめて今年で11一年になるが、彼はただ走ることに憑かれてここまできた。「おかげで親を泣かせてばかりいた」身長165mと小柄な今野は、そういってニヤッとした。笑うと童顔がいっそう人なつっこく映る。昭和27年12月に、今野は警察官を父に3人兄弟の次男として神奈川県大和市に生まれた。兄弟で一番、両親を手こずらせたという。その今野少年が小学5年のとき、高校生だった長兄の背中にしがみついて、彼は初めてバイクで風を切る快感を知る。それ以来、バイクは今野少年を虜にした。学校から帰ると、兄にせがんでバイクで走る。厚木の米軍基地に通い、モトクロスの練習をフェンス越しに見て歓声をあげる。夜は遅くまでポンコツ車を分解し、組み立てる。父親が警察官だけに近所の住人は、今野少年に白い視線を投げつけた。中学、そして私立の工業高校へ進学するにつれバイク熱はエスカレートしていった。誕生日に免許を取った今野はたちまち事故を起した。バスを追い技いたとたん、民家の垣根に激突したが、幸いケガなく済んだ。父親には「二度と乗るな!と厳命されるが、数カ月後に彼はまた事故を起す。「タコメーターに感激して見とれていたら、ガッチヤーンです。気づくといっぱいの人が顔をのぞいてた。一週間の入院です」3年になってさらに事故。学校内での人身事故だ。軽傷だったが、彼は無期停学処分となった。母親は泣いた。父親は口も利かなくなった。彼は家を飛び出して、鈴鹿に向う。「人生、もうどないなってもエエと思った。こないなったら好きなバイクをとことんやってやろ、とね。一直線に進むしかない、そう決めたんですわ」ひたすら走る。ボクの人生にどこか似ている。鈴鹿で今野は、小さなバイク屋で働くことになった。彼は喜々とした。嫌な学校、家庭のイザコザ、全ての問題から解放された気分だった。「バイクを磨いたり、修理したり。好きなことをして給料もらえるなんてサイコーの気分だったです」しかし逃避行は一日で終わった。バイクを修理していて人の気配を感じ、ふと振り向くと「涙をボロボロ出したオフクロが立っていた」のだ。「高校だけは出ておくれ」と母親は泣き叫んだ。バイクをよく識る今野は、卒業後の進路はカワサキと決めていた。バイクの三原則は、走る・曲がる・止まる。ところがカワサキのバイクは独得の個性を持っていた。「三原則の曲がる・止まるがな

いんです。ただ走るだけ。速さはどこにも負けん。この単純さがボクの生き方に似てると思ったからなんです」と、今野は話している。昭和46年4月、今野はそうして兵庫県のカワサキ重工業に入社する。だが、彼が配属された職場はラインだった。「こんなアホな、バイクに乗れると思ってたのに」。朝から晩までの流れ作業に彼はノイローゼになる。「辞めますわ」といって次に回わされたのが技術部。だが「単車乗りたいのならおカド違いや」といわれた。ちょうど隣りに、テストライダーーの部屋があった。皮のつなぎを着て大型の試作車に乗って「よっしや!行くで」と声をかける彼らの姿がまぶしかった。が、彼の願いは果せなかった。ただ一度け、今野はテストライダーになったことがある。「お前、いっぺん走ってみい」。だが一日中走り回らされて体はクタクタになった。「走らんと怒られるんですわ。仕事となるとやっぱり別やね」結局、今野はカワサキに4年居て辞めた。当時、彼はすでに鈴鹿でも何度か優勝経験を持つ国際B級のモトクロスライダーだった。トライアルでも四国・中国の年間チヤンプになったりもしていた。ところがレースのたびに、仕事に支障をきたすという理由で「クビにするぞ」といわれたのだ。「それもあるけど、やっぱり自分でバイク屋をやりたかったんです。家の者は反対したけど、性格がカワサキのバイクやからね。一直線に走るだけですわ。自分のために走って走って、走りまくりたかった」今野は、そうしてメキシコの大地を駆けるように、青春時代を疾走してきた。

 KXが青い空に飛んだ。
冠はいらない、ただ走るるだけていい。


レースに予想外のアクシデントはつきもだ。しかし今野のBAJA1000が、こんなにアッ気なく終わるとは彼自身も考えなかった。スタート地点から約200Km。今野は150kmの猛スビードで走っていた。前方はゆるいカーブになってる。サボテンが目に入った。そしてKXがカーブを曲り切ったそのとき、今野は後輪がふわっと、持上がるのを感じた。サボテンの陰に岩が隠れていたのだ。彼の目に、青い空をバックにライムグリーンのKXが宙を飛んでいくのが見えた。何秒か、何分か、気がつくと今野の10mほど先にKXが横だわっていた。今野にとってのBAJA1000はこれで終わった。最初の計画では1200KMをパートナーの佐々木と4交替で走るとになっていたが、今野の体を気遣った佐々木が残りの全コースを走り技いた。



結果はクラス出走20台中8位、総合47位となった。成績は不満だったが、それでもレース終了後、佐々木と対面した今野は互いにニヤツと笑い合って、こういった。「やるだけやったんや」ほかに言葉はいらない。泥と上埃でまっ黒にくすんだ顔がほころんだ。今野は精一杯走った。風のように自由に駆けた。バイクに注ぐ情熱がメキシコの地で完全燃焼した。今野は佐々木と89を約束した。そして「40までにパリダカに出よう」とも誓う。彼らに冠はいらない。バイクと共に、ただ疾走するだけでいい。走ることで自分を確認する今野の疾走はまだまだ続く。